幼少の頃
姉が2人、弟1人の4人兄弟で、姉2人がピアノを習っていました。
私は姉と一緒にピアノを弾いていて、3歳から姉と同じピアノ教室へ通い始めました。
気がついたらピアノを習っていたという感じです。
先生はとても優しくて、全部弾けたらすぐに合格!
でもあまり嬉しい気持ちではなく、むしろ少し物足りなさを感じていました。
家での練習は、母が少しピアノが弾けたのもあり、厳しく指導されていて、レッスンよりも1番緊張していました。
そのため、(そのおかげで?)毎週合格する曲があって、毎週新しい曲にチャレンジしなければならないのが子供ながらに大変だなぁと感じていたのかもしれません。
4歳。初めての発表会。
知らない人からピアノを褒められていい気分になり、双子の子がピアノを弾いているのを見て
「私ももう一回弾く!」といって、出番が終わったのに舞台の階段を上がっていってしまい、大人たちを焦らせた事があったそうです。
引っ越し千葉、東京
幼稚園最後の夏休み、千葉から東京へ引っ越しをしました。
あと少しで卒園だからと、なんと千葉まで電車で1時間かけてラッシュのなか、毎日通いました。
特に冬は朝早く起きるのが大変でしたが、弟も一緒に通ったので、満員電車の中でも一緒に駅名を覚えたり歌を歌ったりしていたので楽しかった思い出ばかりです。
今思えば、毎日幼児2人を連れてラッシュ時間に電車通園、母は凄く大変だっただろうなと思います。
小学生〜地獄の練習?
引っ越しでピアノは一時中断していたものの
小学校に入学後、レッスンを再開!
母が近くの先生を見つけてきてくれましたが、そのころの私の本音は
「えーまた地獄の練習がはじまる~~」でした。
今度の先生はチェリストで、有名なオーケストラの団員もされていました。
子供のころの私には淡々としていて厳しい印象の先生に感じていました。
ピアノは、手の形からしっかりと基礎を学んでいき、両手で弾いてくるのが当たり前だったので、毎日練習して1週間で両手で全部弾き、2週目で注意されたところを直していき、3週目で暗譜が出来て合格!の流れでした。
ピアノだけではなく、レッスンではソルフェージュや和声聴音、メロディー聴音は五線に書く事も1から教わりました。
聴音や楽譜を書く事はそれまでやった事がなくて、はじめての経験。
特に音符を書くと言う作業は6歳の私にとって難しく、
線がたくさんあるこれ、どうするの?と思いながらも頭をふり絞って考えて書いていました。
そこで沢山考えて教わったこと全部が自分のものとなって、その後、私の強みとなっていきました。
習い事はピアノ
学校では、女の子の習い事といえばピアノ!
というくらい、ほとんどの子がピアノを習っていて、しかも大体同じような教本を使っていたので、友達の家へ行くとみんなでピアノの弾き合いをしていました。
そのころからたくさんの友達と遊ぶようになり、男の子とケンカするくらい元気な子供でした。
習い事も沢山やらせてもらっていて、ピアノの他に習字、英会話、バレエ。
そのころの一番好きな習い事は断トツ!「バレエ」でした。
トウシューズに憧れてバレエを習い始めて、トウシューズを初めて履けたときは
嬉しくて、こっそり枕元に置いて一緒に寝ていたほどです。
そして、バレエ音楽は特に大好きで、その中でも特に好きだったのは「くるみ割り人形」。
毎年母がクリスマスシーズンに、通っているバレエ団の公演へ連れて行ってくれました。
ピアノは相変わらず母が練習に付き添っていて
とても厳しくダメ出しされたりしていたのですが、何回もダメ出しをされてついに私も怒りが。
出来るまで練習しなさいといわれて腹が立った私は、絶対に弾かないと決めて、ずっとピアノの椅子に座ることなんと2時間!
見かねた祖母が声をかけてくれて、しぶしぶ椅子から降りて私が降参したという事もありました。
そうとう頑固だったのかもしれません。。。
高学年になると、音楽は専門科目として合奏や合唱などたくさんの行事があり、合唱の伴奏に選ばれたり、学年全体の合奏ではほとんど鍵盤楽器を選んで、アコーディオンやエレクトーンなども中心となってやっていました。
ピアノでは聴音もすべてドイツ語で習っていて、楽譜を書くのも得意になっていたので、専門的に学んでいる自覚があり、音楽だけは誰にも負けたくない気持ちで頑張っていました。
一番印象に残っているのは6年生の時の合奏です。
モーツアルトの「アイネクライネナハトムジーク」をアコーディオンで弾く事になり、難しいパートを任された時でした。
自分のパートだけでなく、他のパートの音もよく聴きながら、みんなで一つの音楽を作り上げていく一体感を感じて、さらに音楽の楽しさを実感した曲でした。
そのころから、だんだんとピアノも難しくなってきたからか、毎日の練習に母の付き添いがなくなり、私もいろいろな曲が弾けるようになってきて、やっとピアノが楽しくなってきました。
中学生のころ
ピアノはだんだんと有名な曲が弾けるようになり、ベートーベンやショパン、シューベルトなどもちらほら弾けるようになったころ、発表会でリストの「忘れられたワルツ」を弾きました。
その時に先生のご家族で音大教授の先生に、こんな難しい曲をよく弾けたね!と褒めてもらえた事で少しずつピアノに対する自信が持てるようになっていきました。
学校では、合唱の伴奏を受け持ちソロとは違う楽しさや難しさも経験しました。
高校時代
高校は自由な校風で帰国子女も沢山いたからか個性的な人が多く、またそれをみんなが認め尊重している雰囲気がありました。
今ではよく言われる「個性を尊重する」ことを生徒たちが自然と理解していたので、のびのびと学校生活を送ることが出来ました。
これからの進路
高校2年生の最初の進路指導で、初めてこれからの進路を考えた時、
みんなが大学や留学を希望する中、私が考えていたことは、他の人と同じではなく、自分に出来ることで、本当にやりたい事は何か、ということでした。
ピアノだけは誰にも負けない
真剣に考えれば考えるほど、毎日の生活の一部となっていたピアノが、自分の強みだったことに気が付いて、これしかない!と思い
音楽大学へ進学することを決意しました。
それからは色々な先生を紹介してもらい、受験のための勉強や実技など、沢山の先生にお世話になりました。
夏休みはご飯とお風呂以外は夜中12時までピアノを弾き、その後3時間くらい楽典や学校の勉強。
3年生になると、学校帰りに先生のレッスンを受けに遠くまで行き、そこから帰って夜中までピアノを弾き、夜中から勉強というサイクルの繰り返し。
今振り返ってみると、ものすごく頑張っていましたが当時はあまり頑張っているという意識もなく、新しいことを覚えるのが楽しい!
ピアノを深く掘り下げて弾いていくほど奥が深くてもっと上手になりたい!
という気持ちが強かったように感じます。
そして何より、聴音などのソルフェージュを小さい頃からやっていたために、苦労せずに出来ることがあるというのも私の自信となっていました。
一般的に高校2年で音大を目指すのは遅すぎると言われるかもしれません。
でも、私の場合は先生が小さい頃から聴音や新曲、ハノンのスケールは何回も繰り返しレッスンしてくれていました。
受験に必要な事を普段のレッスンで大体教わっていたので、ピアノに集中できたのだと思います。
沢山の先生方にお世話になり
無事、第1志望の東京音楽大学に入学することが出来ました。
念願かなって東京音楽大学へ!
これからどんな学校生活が待っているんだろうとワクワクしながら入学!
しかし、5月が過ぎたころから学校に行くのが少しずつ辛くなっていました。
音大へ入ることを目標としてそれが叶ったはずなのに、達成できたその先を考えていなかったのです。
何のために学校へ行っているのか分からなくなってしまい、授業もさぼりがちに・・・
そんな私を気にかけて心配してくれたのは、大学の友達でした。
私が学校へ来ていない事を心配してたびたび連絡してきてくれて、友達もたくさん出来てようやく前向きにこれからのことを考えられるようになっていきました。
大学2年生の時は、先生の勧めで学内オーディションを受け、同学年で唯一合格し、学内演奏会に出演。
4年生でも学内演奏会に出演し、ピアノ科以外の先生からも高評価を受けました。
社会人
大学時代に人に教えることが楽しくなり、歌うことも大好きだったため、ヤマハ音楽教室のシステム講師兼ピアノ講師となりました。
小さい子供たちと歌ったりピアノを弾いたりするのはとても楽しくて、やりがいもありました。
音楽療法の世界へ
そのころ、ちょうど、「音楽療法」というものが海外から入ってきたばかりで、音楽療法という言葉も日本ではまだあまり知られていなかったのですが、
初めて聞いたとき、どういうものなのかとても興味があり、図書館や音楽の専門誌など少ない文献を読み漁って調べていくうちに、音楽療法を勉強したいという気持ちが強くなっていきました。
そして、専門的に勉強しようと一念発起して専門学校へ。
そこでは当時の音楽大学では勉強しないリトミックや幼児教育、音楽療法に深くかかわっている福祉の事など、指導に直接役に立つ事を沢山教わり、色々な施設での実習
卒業後は音楽療法の知識を生かし福祉施設で音楽療法をしたり、施設の皆さんと関わる仕事をするようになりました。
結婚、そして初めての生徒
結婚後、東久留米市に引っ越し、自宅でピアノ教室を始めました。
初めての生徒さんは年長さんの女の子。そして、お友達の3人。
ご近所で家族同士、普段から交流があったので、レッスンもスムーズにすすめることができました。
入院、臨月での発表会
ピアノ教室を始めたのだし、発表会を開催しようと準備を始めたころに妊娠。嬉しい反面つわりが酷くて何も食べられなくなって1か月、
妊娠悪阻でなんと緊急入院。10日ほどで退院できましたが、レッスンできないことに申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
そして妊娠前から発表会の日にちが決まっていたのですが、なんと発表会の日は臨で、出産予定3週間前。
はじめての妊娠、はじめての自分たちで主催する発表会だったためどうなるのか不安はありましたが、一緒に開催する友人や保護者の方からも、もし陣痛が来たらみんな経験者だから先生安心してください!といって励ましてくださり、無事に発表会を終えることができました。
ワンオペ育児
発表会の1か月後、無事に出産!
子供の1か月検診が終わってからピアノを再開し、
平日は朝早くから夜中まで私と子供だけ、いわゆる「ワンオペ育児」生活がはじまりました。
子供が寝ている間に家事やレッスンをしようと考えていましたが
そんなうまく行くはずもなく、
生後1か月を過ぎたころから、子供がとにかく私から少しでも離れると泣く、3か月もしたころには、少しでも体を離そうとすると泣くので
トイレにもすぐには行けず、背中におんぶも泣きわめくので
起きている間はほぼ抱っこして生活していました。
ピアノを弾いても泣き出して、その声でピアノの音が聴こえないので、昼間の練習はあきらめて夜23時から1時の間、確実に寝ている時間に電子ピアノでコッソリ練習するしかありませんでした。
子育てとレッスンの両立
そんな中、レッスンの時は母が来てくれたり、ファミリーサポートを利用して、家に来て一緒に遊んでもらったりしていましたが、それも出来ない日は一時保育に朝から数件電話をかけまくって、何とか預かってもらう所を探していました。
毎日沢山の人に支えられ、試行錯誤しながらも何とか乗り切りました。
本格的に教え始める
子供が幼稚園から小学校へ上がるころにようやく自分の時間がつくれるようになり、様々な生徒さんが来てくれるようになりました。
そこで、子供が学校へ行っている時間に私も勉強することにしました。
様々な研修会に参加し、新しく出版される教本の指導法や教材の使い方を勉強したり、海外での指導法なども勉強しながら、どんどん新しいことを取り入れ工夫しています。
また、発達障がいの生徒さんをレッスンをしていく中で、様々な特性があることを勉強しピアノを通して色々な可能性を引き出すお手伝いをしたいと考えています。
ピアノ教室の生徒さん
今まで通っていた生徒さんの中には、ソルフェージュや声楽を取り入れた歌の指導で劇団四季のミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」に1年間出演したり、ピアノで武蔵野音大へ進学した生徒さんもいます。
また、大学受験まで頑張ってピアノに通い見事に京都大学へ進学した生徒さんも。
ピアノと学業の両立は、特に受験ともなると難しくなると思いますが、
ある生徒さんはなんと朝、30分早く起きてピアノを弾いていると言っていました。自分の部屋にピアノが置いてあったのも都合がよかったのかもしれませんが、学校から塾へ直行していたので、朝のその時間しか弾けるときがないということでした。
小さい頃からの習慣として身についていたことも大きいのかなと思います。
ピアノ教室で大切にしていることは、継続は力なり!です。
ピアノが上手になることはもちろんですが、真剣に取り組む事で得られる楽しさを知ったり、長く続けてこられたという事で自信にもつながります。
これからも様々な生徒さんたちとの出会いを楽しみにしています。
生徒さん
・音大進学 武蔵野ピアノ科
・高校まで国立高校→京都大学に進学
この生徒さん練習してくる生徒さんでした。塾で忙しいのにピアノは朝練。
できたところをお母さんに報告させていました